映画の歴史現在のスクリーンに映る映画の原型はシネマトグラフだとされています。これは、1895年に、フランス人のルミエール兄弟の発明。 アメリカの発明王エジソンが発明したキネトスコープという映画の原型は、箱の中で絵を連続して動かして、人が一人づつそれを覗きこむというシステム。 私たちの知る、スクリーンに映る映像を大勢で見るという映画は、ルミエール兄弟がパリのグランカフェで発表したシステムが初めてとのこと。 日本では1897年(明治30年)に、輸入したシネマトグラフが大阪で公開されたのが初め。その映画の内容は、ヨーロッパ各国のドキュメントであったらしい。 それから10年くらいの間に、映画はドキュメントからストーリー性のあるドラマに変わっていく。 それから更に10年後には、芸術性も加わるようになっていく。 1915年、アメリカ映画の父、D・W・グリフィスの<国民の創世>という大作で、映画は大衆のものに。 日本では1899年に、柴田常吉が、九代目市川団十郎と五代目尾上菊五郎の<紅葉狩>の舞台を実写制作。 1908年日本映画の父と呼ばれる牧野省三が<本能寺合戦(太閤の本能寺)>という劇映画を制作。 大戦前後のある時期までは、アメリカではメジャー8社という大手映画会社があった。 MGM、20世紀フォックス、ワーナーズ・ブラザースなどであるが、世界の映画産業の中で大きなシェア率を誇り、映画市場に君臨していた。 しかし、1960年の後半、テレビの普及、独立プロの台頭などで、そのメジャー8社も名ばかりとなり、今日では往年の面影はない。 イギリスでも、アーサーランクやアレキサンダー・コルダなどの大手の制作会社があったが、アメリカと同様の道を辿って行く。 フランスでは、戦前戦後を通じて、大資本による映画制作は行われず、殆どがプロダクションによる制作で、1本づつ監督や俳優を集めて制作するシステムであった。 そして、戦後は映画界にヌーベルバーグを巻き起こす。 ドイツには、ウファという巨大資本の制作会社があったが、ヒトラーの台頭とともに、国策映画=映画という時代を迎える。国策映画の中でも芸術性が高いと評価される映画に、<民族の祭典>がある。 大戦後のイタリア映画は、大戦中にはムッソリニーの統制が厳しく、ドイツと同じ運命を辿りながら、戦後は荒廃の中から、芸術感覚に優れた映画を数多く制作していく。 日本では、戦前は、松竹、日活、新興、大都という大手があり、1937年、東宝が加わった。 1942年に、日活、新興、大都が合併して、大日本映画株式会社(大映)となる。 戦後は大映、松竹、東宝の3社が映画の制作を再開。 その後、東宝の組合から分裂した、新東宝が出来る。 1951年に、東映が出来、1953年には、日活を復活させることを目的に、新日活が設立される。 1962年に悪しき協定(5社協定)松竹、東宝、大映、新東宝、東映の5社で取決めた協定、後に日活が入り6社の協定が結ばれる。 「主演スターの貸し借り禁止」、 「契約会社とトラブルを起こしてフリーになった俳優は使わない」、 「専属スターは絶対テレビには出さない」 などの内容。 1961年、新東宝が経営不振から制作中止を発表。1966年、1967年と大映、日活が倒産することによって自然消滅に至る。 アメリカでも映画の発展を阻害する『マッカーシー旋風』というものがある。 大戦後、共産主義の脅威に怯えるアメリカは、マッカーシー上院議員をリーダーとする非米活動調査委員会が、赤狩りを始め、映画界では、仲間同士での裏切りと密告が起こり、投獄されてしまった者や、地下に潜って仕事を続ける者が出来る。 |